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箱根登山鉄道の歴史

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馬車鉄道 箱根を馬車鉄道が通る~箱根・小田原地方 近代交通の夜明け~

 東海道線が新橋-横浜間に開通したのが1872(明治5)年。これが国府津まで延長され、開通したのは1887(明治20)年のことでした。しかし、国府津以西の延長計画の中には小田原は含まれていませんでした。箱根・足柄越えについては、松田-山北-御殿場のルートが、その路線として採用されていたからです。
当時、東海道線幹線上から外されることは、近代文化からとり残されるということでした。江戸開府以来、東海道の主要な宿場町として栄えてきた小田原の人々にとっては耐えがたく、しかも現実に箱根への湯治客の足が遠のくことにより悲観的にならざるをえませんでした。そこで計画されたのが、国府津-小田原-箱根を結ぶ私設鉄道敷設計画案でした。 1887(明治20)年11月20日、小田原の有志吉田義方が発起人代表となり、国府津-湯本間の馬車鉄道敷設の請願書を神奈川県庁に提出しました。翌1888(明治21)年2月21日に免許されると、当社の前身となる小田原馬車鉄道㈱が設立され、初代社長には吉田義方が就任しました。
馬車鉄道敷設工事は官公庁をはじめ、地元有力者の強力なバックアップのもとに進められ、全工程をわずか7か月という短期間で完了しました。松原神社の裏手に厩舎が建てられ、車両はイギリスから6両、アメリカから5両購入されました。 1888(明治21)年10月1日、華やいだ雰囲気の中で全線の営業が開始されました。起点は東海道線国府津停車場前、終点は湯本の旭日橋の手前広場で、この間12.9キロ、軌間は1,372ミリでした。この鉄路の上を2頭立ての馬車が、多くの箱根・小田原の人々の期待や、遠来の湯治客の希望をのせて走ったのでした。

馬車鉄道の車両(明治33年頃

馬車鉄道の車両

馬車鉄道湯本駅全景

馬車鉄道湯本駅全景

電気鉄道 電化へ夢は広がる~箱根・小田原地方に近代文化をもたらした電車~

 1890(明治23)年5月、第3回内国勧業博覧会にアメリカから輸入された電車が出展されたのをきっかけに、小田原馬車鉄道でも電化計画の審議が始められました。
小田原馬車鉄道は、その人気の高まりとはうらはらに、経営状態は決して良好とはいえず、馬匹を80頭前後もかかえていたため、飼料の出費は大変なものでした。電化計画によって馬車鉄道の持つ矛盾を一挙に解決して経営を立て直そうとしたのですが、電気鉄道は当時の日本においては未知数の事業でしたので、調査・研究は慎重に進められることになりました。 小田原馬車鉄道の電化計画は、幾多の難関と紆余曲折を経て、ようやく1896(明治29)年7月18日に電気鉄道敷設の免許を取得するに至りました。同年10月15日には、商号を小田原馬車鉄道㈱から小田原電気鉄道㈱と改め、電化計画は実施の段階へと移りました。 まず、電力供給のために最新鋭設備の湯本茶屋発電所を建設、ついで電化工事が着々と進められ、1900(明治33)年3月21日、小田原電気鉄道は国府津-湯本間全線の運転を開始しました。十数年にわたって親しまれてきた小田原馬車鉄道は小田原電気鉄道の営業開始前日で廃止されましたが、小田原電気鉄道の開通とともに小田原の町に電燈電力の供給事業も始められました。この電車の登場は、箱根・小田原地方に近代文化をもたらす重要な出来事だったのです。

電気鉄道開業式

電気鉄道開業式

酒匂の松林内を行く

酒匂の松林内を行く

電気鉄道の車両

電気鉄道の車両

登山電車 天下の瞼 箱根の山に電車を走らせる~現代の観光地へ変化していく箱根~

 1907(明治40)年、スイスにおける登山鉄道の実況を視察して帰国した某名士の、景勝地箱根に観光誘致のための登山鉄道を敷設すべきという強い勧めを伝えられた小田原電気鉄道は、1910(明治43)年、登山鉄道敷設のための調査・研究を開始しました。  当初の設計は、湯本-強羅間7.1キロに軌間1,372ミリ、最急勾配125パーミルで敷設、急勾配区間はアプト式を採用するというもので、工事施工認可も下りていましたが、小田原電気鉄道では万全を期して、同社の主任技師長半田貢を登山鉄道の実情視察・調査のため、欧米に派遣しました。その結果、改訂された新設計案はアプト式ではなく、ヨーロッパ各国の登山鉄道と同様に粘着式が採用され、出山・大平台・上大平台の3ヵ所にスイッチバック線を設けることにより、最急勾配は80パーミルに緩和されました。また、自然を損なわないように、軌道は山ひだをぬうように設計されたため、最小曲線半径は他に類をみない最急の30メートルになりました。
 登山鉄道敷設工事は地勢の関係から、湯本-大平台間を第1区、大平台-強羅間を第2区として着手されましたが、もっとも難航をきわめたのは、早川橋梁(通称「出山の鉄橋」)の架設工事でした。川床から架設部まで43メートルの足場組みだけでも大変な労力と日数を要したのに加えて、大戦中で橋梁の材料輸入は途絶、やむなく鉄道院払い下げの天竜川橋梁を転用して架設しました。
 1919(大正8)年6月1日、登山電車は箱根湯本-強羅間8.9キロの運転を開始しました。
「箱根の山は、天下の嶮として滝廉太郎先生の名曲によって、豪快勇壮なメロディで天下に謳いはやされたように、徳川300年夢安からしめた要害であったが、今や文化の威力に征服されて、我国唯一の登山電車が開通し、ために山上山下の交通上に一大センセイションを起こして観光ルートを一変するに至らしめた。(中略)ここに、天嶮と謳われた箱根の難所も、今は自然公園とも一大遊園地とも謳われるほどに大衆化されて、同年6月1日から近代文化を表象したスマートな登山電車が走り出し、乗客はそのスリルと車窓からの展望美を賞賛したことであった」
現在当社に残っている記録には、当時の模様をこのように伝えています。
登山鉄道の車両は、車体が日本車両製造㈱製で電気部品はアメリカ製、散水装置と4種類のブレーキを装備していることが最大の特徴でした。現在運用中のモハ1形登山電車(103-107・104-106)は、様々な改良が施されて外観も大きく変化していますが、登山鉄道開業以来、現在も箱根の山を元気に走り続けており、当時の技術水準の高さがうかがえます。
路線も、現在とほとんど変わりなく、当時、貸自動車が7円50銭で走っていたところを、登山電車は84銭という低廉な料金で走りました。登山電車の登場により、比較的裕福な人々の観光地であった箱根は、誰もが楽しめる大衆的な観光地へと変化していったのです。

開業当時の出山スイッチバック

開業当時の出山スイッチバック

開業当時の小涌谷駅

開業当時の小涌谷駅

チキ 1型 4号車(現在 のモハ1型 104号車 )

チキ 1型 4号車
(現在 のモハ1形 104号車 )

写真提供(敬称略) 宮松丈夫

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